タイの日本人居住区ってどのあたり?と問われれば、「バンコクのスクンビット通りのアソークからエカマイあたり」と大雑把に言い切ってしまって良いと思います。
実際、われわれ日系不動産屋が、日本人駐在員の皆様に日々ご紹介している住まいのほとんどがこのエリアの物件です。
では、昔はどうだったのでしょうか?
時代をうんと遡って、例えば400年前、日本人はどのあたりで物件探しをしていたのでしょうか?
今回は皆様を歴史浪漫の世界に誘(いざな)いたいと思います♪
本記事の内容
アユタヤの日本人村跡地を訪ねる
400年前、江戸時代初期のタイの日本人は、バンコクではなく、チャオプラヤー川の河口から約100kmほどのところに集まっていました。
そうです! 皆様ご存知のアユタヤ日本人村です。
国際貿易都市として活気を呈していたアユタヤの都はこのように島になっており、城壁で囲まれていました。
城内には王宮や寺院以外にも60の市場、城外には30の市場があって、各国の産物がそこで売られ、朝と夕方は買い物客で混雑したとのことです。
日本とアユタヤは貿易を行っていました。歴史の教科書に乗っていた例の朱印船貿易です。
日本人たちの町は城内から1キロほど下流にありました。
この地図は1693年にルイ14世により派遣されたフランス外交使節が作成したものです。
日本人居住区の面積は、チャオプラヤー川に沿って南北に1kmほど、東西に200mほどあり、江戸初期には少なくとも約1000〜1500人の日本人が住んでいたと推測されています。
彼らの多くは、関ヶ原や大坂の陣などで負けて浪人になったサムライたちで、あとは商人やキリシタンでした。
1km × 200mの長方形を今のスクンビット通りにあてはめてみるとこんな感じです。
フジスーパー1号店からソイ49の近くまでカバーしていますね。
川の少し下流にあるアユタヤ橋から眺めた日本人村跡地です。
アユタヤ日本人村跡地をご案内します!
こちらが日本人村跡地の入り口です。バンコクから車で1時間とちょっとで到着です。
日タイ友好を象徴する両国の国旗が青空にはためいていました。
入場料は50バーツ、12歳以下の子供は20バーツ。
敷地内は静かな公園になっています。
右手のほうに3つの鳥居が見えたので、そちらに歩いてみると、神社のようなものがありました。
戦前にはこの地に山田長政神社の建立計画もあったそうですが、頓挫してしまったとのこと。つまり正式な神社ではないようです。
いずれにしても、この地で果てた先人たちに黙祷を捧げました。
とりあえず川のほうへ向かって歩きます。
岸辺に銅像がありました。
そうです、山田長政です!
海外で出世した日本人といえば、まず唐の玄宗皇帝に仕えて最後はベトナムの太守に任命された阿倍仲麻呂でしょう。
そしてそれに次ぐのが、アユタヤ王朝の最高位の軍人となり、最後はアユタヤの属国であるリゴール王国(現在のナコーンシータマラート県周辺)の太守に任命された山田長政ではないでしょうか。
若い頃は静岡で殿様の駕籠かき(籠持ち=運転手)をやっていましたが、アユタヤへ渡り、そこで日本人コミュニティの頭領に出世しました。
当時の世界最強レベルの武力を誇る600〜800人のサムライ部隊を率いてタイで無双。
何かあれば山田さんにお願いすれば安心!ということで、ソンタム王の大きな信頼を得ました。
日本人村には関ヶ原などを戦った猛者の先輩が沢山いたかと思われます。
そういう中で、後からぽっと渡ってきた若いあんちゃんが頭領になった。それだけでも凄いことですね。
↑銅像の下にはこのように記してありました。
山田長政がソンタム王からもらったタイの名前「オークヤー・セーナーピムック」の意味が知りたくなりました。
【解説】オークヤーは位階で、セーナーピムックは欽賜名(王が臣下に授ける名前)。
アユタヤの官吏は本名は使わず、このように位階+欽賜名で呼ばれました。
アユタヤ時代の位階がどのようになっていたのかというと、年代によって様々に変遷しましたが、上から順に、
・チャオプラヤー
・プラヤー(オークヤー)
・プラ(オークプラ)
・ルワン(オークルワン)
・クン(オーククン)
・ムーン
・パン
・ナーイ
とまとめられるようです。アユタヤ初期はクンが最上位でしたが、時代を経るごとにどんどん新しい上の位階ができました。
「チャオプラヤー」はアユタヤ末期になってからできた位階で、山田長政の頃はまだなかったとのこと。
ということは、この碑文のとおりオークヤーは当時最高の位だったと言えるでしょう。大臣、将軍クラスでしょうか。なんだか嬉しいですね。
「セーナーピムック」というのは、大阪外語大学名誉教授の赤木攻先生の著書「タイのかたち」によれば、「軍隊の領袖」といった意味で、このように欽賜名というのは臣下の役割を示すようなネーミングだったとのこと。
【豆知識】チャオプラヤーより更に上のソムデットチャオプラヤーという史上最高の位階がアユタヤ滅亡後に出てくるが、それは後にラーマ1世となるチャクリー将軍がトンブリー王朝のタークシン王からもらったのが初めてのケース。以降現在のチャクリー王朝になってから3人いる。つまりソムデットチャオプラヤーになった人はタイ史上4人のみ。
銅像を眺めた後はチャオプラヤー川を眺めましたが、このときは正直言うと、何の変哲もないただの田舎の景色だな、ぐらいにしか思いませんでした。
王族と外国人勢力との仁義なき戦いを知る
次に歴史資料館に入ってみました。
館内は実に興味深い史料の宝庫でした。
建物の奥には1663年にオランダ人が描いたというアユタヤの都の絵があります。
当時オランダ東インド会社の本社に飾られてあったと推測され、現在オリジナルはアムステルダム国立博物館所蔵とのこと。
縦横無尽に水路が走り、「東洋のベニス」と言われた当時のアユタヤの雰囲気が大迫力で伝わってきます。
アユタヤは恵まれた港市国家(Port City)であり、貿易による莫大な利益をめぐって、王室、重臣、外国人たちが常に丁々発止のやりとりを展開していました。
外国人の居住地は地図のように島(城壁内)の外側にありました。
当時アユタヤに住んでいた様々な外国人たちの説明があり、大変勉強になりました。
16世紀〜17世紀初頭にかけてアジアで大変鼻息が荒かったポルトガルは、アユタヤと外交関係を結ぼうとした初めての西洋国でした。
そういえば日本に最初に来たヨーロッパ人もポルトガル人でしたね。
ポルトガルは最初はアユタヤでぶいぶい言わせていましたが、その後は本国自体が没落してゆき、アユタヤでの存在感も少しずつしぼんでいきました。
オランダ人は会社の駐在員としてアユタヤに進出していました。そうです、教科書で習った「オランダ東インド会社」です。
彼らは17世紀になると没落傾向にあったポルトガル人たちのシマを世界中で荒らし回っていきました。アユタヤでもそれは同じでした。
1630年の山田長政の死、そしてその後幕府が出した鎖国令によって日本人が勢力を失ったあとは、オランダとチャイニーズが勢力を持ちました。
イギリス人も駐在員で来ていました。そうです、「イギリス東インド会社」です。
社員がやくざを養っていた、と書いてありますね …。
この説明によれば、彼らはアユタヤ貿易ではうまく利益をあげられなかったとのこと。
オランダがうまくいって、イギリスはうまくいかなかった、というのは、江戸幕府との関係に似ていますね。
最後は王室と対立し、アユタヤから追放されてしまいました。
アユタヤ最盛期の王であるナーラーイ王(在位1656-1688)は、調子にのっているオランダを牽制するためフランスに接近。ルイ14世に二度も外交使節団を派遣しました。
ルイ14世はナーラーイ王をキリスト教に改宗させようと目論んでいましたが、ナーラーイ王はこれを拒否しました。
【豆知識】ちなみに渡仏した外交使節団の第一回目の大使はコーサーパーンという高級貴族で、現在のチャクリー王朝の始祖であるラーマ1世はこのコーサーパーンの子孫を名乗っていた。
現在の華人系タイ人の多くは広東省の潮州出身者ですが、アユタヤ時代の華僑の多くは福建人でした。
外国人は島の中に住むことは許されていませんでしたが、一部のチャイニーズは例外だったとのことで、かなり力を持っていたようです。
最初はうまくやっていたオランダが最終的に信頼を失い、フランスも不信感を持たれ、イギリスもアユタヤ王室と対立。そのような流れの中、1688年にナーラーイ王が崩御すると、アユタヤは西洋諸国に対し鎖国政策を取るようになりました。
ということで、アユタヤでの利権を追い求めた外国人たちの仁義なき戦い。勝ち残ったのは、華僑チームとなりました。
インドや中東の人々も多くいました。
ペルシャ人にはシェイク・アフマッドという頭領がいて、王室の信頼を得て内務卿に出世し、彼の子孫はブンナーク家を名乗り、後の世になるとタイの藤原氏のようなパワーを持つに至りました(現在のバンコク王朝において、特別な最高位である”ソムデットチャオプラヤー”の位階をもらった3人はすべてブンナーク家のひと)。
このように、アユタヤは各外国人グループの頭領を政府役人として登用することで外国とうまく付き合い、利益が大きいのであれば重要閣僚に任命することも普通に行っていました。われわれ日本人の感覚だと、なんだか不思議な感じがしますね。
マカッサル人というのはインドネシアのスラウェシ島からやってきたムスリムたちで、タイ語で”マッカサン”と呼ばれました。バンコクのマッカサン通りは、これが由来だったのですね。
他にも、ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、マレー人など、アユタヤには30以上の民族が住んでおり、アユタヤはまさに人種のるつぼでした。
現地の人々は外国人と交わり、また外国人同士も交わり、ハーフやクォーターがどんどん増えていきました。
純血のタイ人というのは存在せず、様々な民族の混合がタイ人である、みたいなことがよく言われますが、このアユタヤのグローバリズムっぷりをみると、腹に落ちますね。
日タイ交流の歴史を知る
日タイの交流史を記した巨大な年表です。
知らなかった話が沢山書いてあり興味深かったです。
年表を眺めていたらとんでもない事件を見つけました。
「1612年アユタヤ在住の日本人280人が王宮に乱入して重臣を殺し、ペッブリーに逃れて自立をはかる」
現在ではこのような事件は考えられませんね。
あとで知りましたが、日本人だけでなく、華僑たちも王宮襲撃事件を起こしているし、西洋人たちもアユタヤ王室と対立するような事件をちょっちゅう起こしていました。マカッサル人もナーラーイ王に反乱を起こしています。
当時の在タイ外国人というのは、現在とは全く違って、傭兵業や海賊業をやっている武装組織であり、簡単にいえば”貿易ビジネスをする暴力団”のようなものだった。利権が削がれたりすると、王室に対して反乱を起こすことも珍しくはなかった。王や重臣たちはそんな外国人たちとうまく付き合い、政権中枢に取り込んだり、互いに牽制させたりして、政治や外交をおこなっていた。
そのように理解しました。
ビデオ上映を鑑賞
歴史資料館の中には10分弱のビデオ上映コーナーもありましたが、これがとても見応えありました。
さっきの川岸は昔はこんな感じだったのかと。この想像図を見てとてもイメージが湧いてきました。
山田長政頭領時代のタイの日本人会は、目の前の川に関所を設けて、各国の交易船から通行料を取るくらいの力を持っていた、とも言われています。
映像で流れた400年前の町並みの想像図です。
我らが頭領、「オークヤー・セーナーピムック」こと山田長政さんです。
資料館を出た後、もう一度チャオプラヤー川を眺めました。
すると、さっきは何とも思わなかった景色がドラマチックなものに見えてきました。
「ああ、向こう岸がポルトガル人村だったのだな」とか「400年前の日本人も同じ川の流れを見ていたんだよな」とか、いろんな想像が湧き、感慨深い気持ちになりました。
ちゃおぷらや つわものどもが夢のあと 大蔵
「アユタヤにやってきた当時の日本人たちは、家探しはどうしていたんだろう?」
「やっぱり石川商事みたいな不動産屋が当時もあったのだろうか?」
そんなことを思ったりもしました。
最後にお菓子のはなし
敷地内には展示館がもうひとつありました。
「山田長政とターオ・トーンキープマーの展示」と書いてあります。
ターオ・トーンキープマーってなんだろう?と思って入ってみると…
お菓子をつくっている女性の人形がありました。
服装はタイ風ですが、顔立ちは西洋人のようです。
説明書きを読んで見ると、この人形の女性がターオ・トーンキープマーで、ポルトガル人と日本人のハーフ。本名はマリーさん。
彼女がポルトガル由来のタイ菓子の元祖とのことで驚きました。
こういうお菓子はタイではしょっちゅう目にしますが、これの元祖が日系人女性だったなんて。
なんだか凄く、へー、という感じですね。
【豆知識】マリーの夫であるコンスタンティン・フォールコンは、アユタヤで大出世したギリシア出身の人物。
イギリス東インド会社に就職後、独立しアユタヤに渡ってナーラーイ王に重用され通訳として活躍。交易を司る大蔵卿に任命され、貿易利権に浴して莫大な財産をつくった。最後は最高位であるチャオプラヤーの位階をもらった。
フォールコンはルイ14世から賄賂をもらい、フランス軍をアユタヤ島内(城壁内)に導き入れたため、他の重臣たちの反感を買い、ナーラーイ王の死後に捕らえられて殺された。
妻のマリーも投獄されたが、出所後は宮廷料理人として活躍、タイの菓子史にその名を刻んだ。
タイ歴史浪漫企画、いかがでしたでしょうか
1630年に山田長政が亡くなった後は、日本人コミュニティは力を落としてしまい、加えて、江戸幕府第三代将軍家光の時に次々と出された鎖国令によって、新しくタイにやってくる日本人もいなくなり、日本人村は自然消滅。
その後、アユタヤの都も1767年にビルマ軍の攻撃によって徹底的に破壊され滅亡。
祇園精舎の鐘の声が聞こえてきます。
400年後のスクンビットはどうなっているでしょうか。
(文中に出てくる歴史知識の多くは、歴史ファンの弊社社長の石川から教えてもらいました)
【ご参考までに】海外に流出したサムライたちの話
この当時東南アジアに出ていったサムライたちの様子については、この動画が大変面白く、ためになりました。
アユタヤの日本人コミュニティについての理解も更に深まり、おすすめです。